Bリーグ・宇都宮ブレックス代表の“信条”とは

Future Leaders

 
     
 
藤本 光正

株式会社栃木ブレックス

代表取締役社長

 

1982年東京都生まれ。高校時代、プロ選手を目指しアメリカにバスケ留学。2006年早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。株式会社リンクアンドモチベーション入社後、2007年にブレックスの設立に携わる。チーム設立後は経営企画、選手獲得交渉、試合運営・演出、スポンサー営業、プロモーション、チケット、グッズ、スクール事業などほぼすべての職種を担当。2012年取締役に就任。2016年取締役副社長に就任。2020年代表取締役社長に就任。2021年B.LEAGUE理事就任。2018年グロービス経営大学院卒業(MBA)。

強豪「宇都宮ブレックス」影の立役者

 プロバスケットボールチーム、宇都宮ブレックス。バスケットボール界のレジェンド・田臥勇太選手をはじめ、日本代表歴のあるギャビン・エドワーズ選手、今や時の人となった比江島慎選手、2023-24シーズンリーグMVPのDJ・ニュービル選手など、数々のスター選手が活躍中だ。

 栃木県宇都宮市をホームタウンとしてホームゲームを開催しており、試合開催日にはチームカラーであるイエローのTシャツ等を身に着けたブレックスファンでアリーナ周辺が埋め尽くされている。直近2023−24シーズンでは1試合平均入場者数4,742人とチーム史上過去最高数を記録するなど、チームの人気はうなぎのぼりだ。

スタジアム風景

 そんな「強く愛されるモチベーションあふれるチーム」であるブレックスを、創設2007年から現在にわたって支え続けている人物がいる。宇都宮ブレックスを運営する株式会社栃木ブレックスの代表取締役社長、藤本光正氏に話を伺ってみた。

 

スポーツが“文化”のカリフォルニア

 小学生のときに出会ったバスケットボールにハマってしまい、気づけば文字通り朝から晩までバスケ漬けの毎日を過ごしていたという藤本代表。NBAや漫画『SLAM DUNK』の影響もあり、いつしかプロになりたいと思うようになる。しかし、藤本代表の学生当時はいわゆる実業団チームが所属するリーグしか選手として活躍できる場はなく、現在のBリーグのような、“プロバスケットボール選手”が活躍する舞台がまだ存在しない時代であった。

 日本でプロになる道はない。業界の現状を見てそう感じた藤本代表は、それでも諦めなかった。親に直談判し、米国カリフォルニアの高校に「バスケをするために」留学したのである。

 「とにかくバスケが楽しい。何時間やってても飽きないし、疲れない。自分がこれだけのめり込めるものはないと確信していましたので、この道でプロになれるならこんなに幸せなことはない。そして日本でプロになれないのなら、本場のアメリカであれば可能性は広がるかもしれないと思い、親に留学の相談をしました。今振り返れば、昔から目標があると達成するための選択肢を全部洗い出して、片っ端からすべてやってみる性格でした。」

 バスケへの情熱を胸に、充実した日々を送っていたアメリカでの生活。練習環境は言わずもがな、本場のレベルや向上心は当時の藤本代表を大いに刺激させた。しかし最も衝撃を受けたのは、アメリカにおけるスポーツの立ち位置だったという。朝、学校ではじまる会話は昨夜のNBAのハイライト、昼休みにはNFLの試合を予想しあい、家に帰ればTVにMLBの試合中継が広がっていて、食卓を囲めばどこの大学チームが強いかといった話題でみんなで盛り上がる。人々の営みの随所にスポーツが存在しているのだ。そこではまさにスポーツが“文化”として人々の生活に根付いていた。

 スポーツが生活に必要とされているアメリカ。一方で当時の日本国内のバスケット業界はどうだったか?と考えると、日本代表チームですらメディアでも一切取り上げられない、どこで試合をやっているかもわからない、一部の「バスケ好き」のためだけのスポーツといった状況。「バスケ好きのためのバスケ」ではダメだ、「バスケの楽しさをもっと多くの人に理解してもらわなければならない…」。藤本代表は、このカリフォルニアでの留学生活が今の夢や目標につながる原体験だと語る。

 

栃木でプロスポーツビジネスを開墾せよ

 日本でバスケをエンターテインメントとして理解し受け入れてもらうにはどうしたらよいのか。大学やインターンシップでスポーツビジネスを学んだ藤本代表は夢の実現に向け、卒業後、人材事業・スポーツ関連事業をおこなっている株式会社リンクアンドモチベーションに入社する。

 時を同じくして、地元栃木県内で有志団体が「栃木県にプロバスケットボールチームを創設する署名活動」をおこなっていた。奇しくもその活動とリンクアンドモチベーションとの縁がつながり、同社が栃木県でのプロバスケットボールチーム設立及び運営を担うことが決定。入社当初からバスケットボール業界をメジャーにする夢を公言していた藤本代表は新卒1年目ながら設立メンバーとして抜擢、2007年に東京から栃木に移り住み、チームの立ち上げに携わることとなる。

現場の様子

 選手も誰もおらず、チーム名すら決まっていない中でスタートを切った当初を振り返ると、“栃木でプロスポーツビジネスを創造する”、という誰もやったことがないその挑戦に、否定の声も少なくなかったという。「栃木は保守的な県民性だから絶対に成功しない、無理だからやめたほうがいいよといろんなところから言われました。プロバスケットボールチームの設立に喜んで受け入れるはずであるバスケットボールに携わる県内関係者でさえ、このような反応でした。

 気持ちはわかる。しかしだからこそ、その風潮に風穴を開けたい。当時の中心メンバーは藤本代表を含め2名。経営企画、選手獲得交渉、試合運営・演出、スポンサー営業、プロモーション、チケット、グッズ、スクール事業など…ほぼすべての職種を担当するという離れ業を、藤本代表は意地でやってのけた。BREAK THROUGH(現状を打破する)ということばから名付けられたチーム“BREX”は、リーグが大きくなる毎に成長していく。

 日本バスケットボール界のレジェンドである田臥勇太選手の獲得にも奔走した。「当初はメールを送ってもエージェント経由でNOと言われました。でも私たちはNOと言われても、実現のために他にあらゆる選択肢を探して、愚直にやりつくしてみるのがチーム名にも込められたポリシー。『メールがだめなら直接会いに行けばいいんじゃないか?』と考えて、実際に飛行機のチケットを取って渡米して、そのままの勢いでエージェントの方とお会いすることができました。『もうアメリカ来ちゃったんで、チームの説明してもいいですか?』みたいな感じで。」そして2008-09シーズンには田臥選手が入団、記者会見では田臥選手が“もっとも熱意を感じたチーム”と語っている。生きる伝説の国内復帰に、業界は騒然とした。

 

大切なのは「信念を持って行動するかどうか」

 田臥選手を筆頭に、今や日本代表を経験した選手が何名も活躍している宇都宮ブレックス。BREAK THROUGHということばからつくられた宇都宮ブレックスの信念はまさに藤本代表が体現し続け、今やチーム全体の文化として形になっている。

 「地方は保守的だという声や批判も当初は多くありましたが、多くの方々の支えをいただき、今ではこれほどの規模にまで成長することができました。田臥選手へのアプローチもその一例ですが、どんなに高い目標や難しい挑戦であっても、まず一歩を踏み出すこと自体は誰にでもできることだと思います。最終的に重要なのは、その行動を起こせるかどうかです。すべての人が目標をクリアできるわけではないかもしれませんが、行動を起こすこと自体は誰にでも可能なはずです。信念を持ち、一歩ずつでも行動に移し続ければ、一見高く思える壁も越えられることがあり、その積み重ねが結果につながると信じています。仮に目標をクリアできなくても、行動を起こしたことで“このやり方だとうまくいかないということを学んだ”、という成長につながります。次の挑戦の成功率も高まるわけです。」

田臥選手と抱擁する藤本代表

 宇都宮ブレックスを応援するために、ついには飛行機に乗って県外から移住するといったケースも年に数件は耳にすると語る藤本代表。スポーツには、観客動員数や放映権といった経済的な観点では測ることのできない、個々人の生活に彩りを与えるという社会的な意義をもたせることができる。

 見知らぬ土地で、システムも何もないゼロの状態からつくり上げてきた藤本代表。リーグ優勝やアリーナ新設など、これからブレックスが取り組む課題はまだまだ存在する。しかし、藤本代表の視線の先には“バスケットボールが日本社会から必要とされている未来”がたしかにあるのだ。

 BREAK THROUGHの精神で、今日も宇都宮ブレックスは走り続ける。